百道(ももち)から

考えの切れっぱし

句会に呼んでいただいて

昨夜は私が俳句を始めるきっかけとなった、俳句会の25周年句会でした。10年ほど離れているのですが、呼んでいただけて光栄でした。

俳句の季語にひかれて、俳句をやってみたいなと思っていたのが15年ほど前。先輩のコピーライターさんとたまたまお茶を飲んでたときのことです。最後に改めていただいた名刺に水の波紋があって、これってなんですか?と尋ねたのがきっかけでした。先輩は自分の俳号(俳句をやるときのペンネームのようなもの)にちなんでる、とおっしゃって、私も興味あるんです!と前のめりになって紹介していただいたのでした。

以来、まったく詠むことができない期間もありつつ、ある方のお陰で復活し、3年ほど。相変わらず俳句は難しいです。でも韻を踏むの美しさ、間、余韻、多くを語らず言葉の響きあいで何かを語るところは、私が目指す制作姿勢ともぴたりあっている気がするのです。おこがましいですけど。

昨日先生がおっしゃったことを忘備録として記録しておきます。句会ではいいね!といって選んだ人が、なぜその句がよいと思ったのかの話をします。これを講評といいますが、先生は「作者が何をきっかけに、何を思って詠んだか」をもっと話すべきだとおっしゃいました。俳句は出した以上、読者のもので語るべきではないと思っていた私にとって、目から鱗でした。おそらくその意味は論議し、改作するのも句の魅力、というように解釈しました。これぞまさしく、車座で行う文芸であり、昨夜の宴の雰囲気そのものでした。俳句のいいところをまた発見した気がしました。