百道(ももち)から

考えの切れっぱし

神戸

取材で3日間、神戸に行ってきた。街を取材するのはこれで3回目。どの街もそうだけど行く度に発見がある。オシャレでおいしい食べ物が頃合いの価格で設定された街。パンやお菓子、服や靴などを買っちゃうから帰りはだいたい荷物がいっぱいになる。東を向けば海、西を見ればすぐ山という景色もいいのよね。住んだらどんな街なんだろうな。

作家さんにお会いして

昨日、作家の桐野夏生さんの講演会に運良く参加した。私が上手にスケジューリングをできてなかったせいで、35分の遅刻。惜しいことをした。作品の雰囲気と日本ペンクラブ協会の会長をお務めになられていることから、ジャーナリスティック風で強いかと思ったけれどその反対。話しぶりは穏やかで声はハスキー。何より美しかった。あの美しさの裏に強さがあるのかと想像する。尋ねられたときの回答はいつも短い。でも待っていたら、もう一つ質問を重ねたらもっと話してくださるようなそんな感覚があった。私は質問をできたのだけど、最後の一言を緊張のためこちらから閉じてしまって、その点も後悔している。何か一言言いたそうだったけどそれは控えられた。閉じる相手は追わないのだと思った。

 本は神通力をもっているようなものだったのに、ネットの登場でそれらを失い、今はコンテンツ化している。小説は文脈や流れるので、切り取っただけでは全体を見通せないはずだが、コンテンツ化されてそれが可能となっている。そうして言葉狩りにあっている。その言葉狩りがネット上では普通の人によって行われているう怖さがある。『日没』に絡めて。

 

ゴルフってすごそう

今朝は朝8時から一件、短いインタビューをしてきました。9時からゴルフをスタートするという方にお話をお聞きするというお仕事。ゴルフクラブの会報誌を作る仕事に携わらせていただき、10年以上はなりますが、こんなに早くから人にインタビューするのは初めてでした。今までそうなってこなかったのが不思議なぐらいです。新鮮な感じでした。

ゴルフは紳士のスポーツとよくいわれます。私はそう詳しくないですが本当にそうなんだろうと思います。もちろんルールに更生であることはもちろんだけれど、人を思いやる心や周囲への気遣いはプレー中もそれ以外の時間も大事になってくるようです。これは今日のように多くの方に話を聞くのを重ねてきて気づいたこと。多くの方が他のメンバーさんや友人への感謝の気持ちを必ずといっていいほど口にするのです。

世の中にはゴルフを通ってきた人生と、通らなかった人生というのがあって、人によっては重大な意味をもつのかもしれません。ゴルフによる出合いで人脈をつくり、ビジネスにつなげる方もいらっしゃろうでしょう。私はゴルフをはじめるチャンスはあったけど、家族以外でゴルフをする人がいなかったこともあって、ハマりませんでした。なんだかちょっと残念な気持ちになる今日このごろです。先日、インタビューさせてもらった女性に子育てが終わって40代後半からゴルフを始められたおっしゃってました。もしかして今からでも遅くない?でもゴルフウエアをカッコよく着こなす自信がないな。

林真理子著「成熟スイッチ」

林真理子著「成熟スイッチ」を手に入れました。書店の棚にあったラスト1冊。以前新書でお書きになった「野心のすすめ」が好きでした。林さんの勢いとエネルギーに対する憧れが私にはあるようです。

心得とか作法とかちょっとお説教くさい感じも出てくるけれど、目次を見てるだけでワクワクしました。見出しは一読して何が書かれているか予測がつかないところもある。そしてページをめくってみるとどこから読んでも面白い。

もしかすると、30代ぐらいに読んでたら「まったく何いってるかわかんない」「枯れてるってこういうこと?」と思ったかもしれない。でも妙齢といわれる年をとっくに過ぎたいまの私には、林さんのさまざまな提案に納得できるし、安心もする。若さを手放したり、年齢に抗うことを諦めて、心に穴ができたとしても、華麗にカバーできることを教えてもらいました。当然、 それには不断の努力と自由に活用できる財源が必要で、林さんがそれを見越して突っ走ってきたことも感じるのだけれど、それを別世界の話、と感じさせないところがすごい。

成熟期の幸せは、年齢にふさわしい精神力を身につけて、まわりに愛を配ること。書いてあることを今まとめるならこういう感じかしら。紋切型な表現で恐縮ですが、今のところこんな感じでございます。

ミン・ジン・リーの『パチンコ』

ミン・ジン・リーの『パチンコ』下巻に突入しました。上巻の途中から、キリスト教や聖書の空気が印象に残り始めている。もちろん実際に登場人物はキリスト教を信仰しているのだけれど。あまり触れてこなかったから今すぐはわからなくて残念。

ハンスが自分の息子・ノアに「勉強しろ」ではなく「学べ」という記述がある。そうだな、これだよ、と思った次第です。

声を大きくすることばかりが、うまく伝える術じゃない

相手とのきめ細かなコミュニケーションを意識し始めたのは、お茶のお稽古を少しかじったときだったろうか。相手との距離、体の向き、角度、話す間合い、声量・トーンなどを丁寧に意識していけば、相手との心地よいコミュニケーションを図れることを知った。

そんなことを思い出したのは今日、小学校の絵本の読み聞かせを終えた私がベテランの大先輩に質問をしたためだった。「教室の奥まで声が届いているか心配なんです」という私に先輩は、「大丈夫。声量ではない。たとえ少々声が小さくとも子どもたちは、ん?と耳を傾ける準備ができているからきっと届いている。第一、絵本には引き込む力がある」と教えてくれたのだ。

その方は、続いてこういう話をしてくれた。小学校を訪れていたある日、ワイワイ賑やかな子ども達を静かにさせるため、女性の教師がわざと、声を出さずに口パクでパクパクしていたところに遭遇したという。そうすると子どもたちはえっ?とこちらに注意を向け始め、いつしか教室はシーンとなったのだ、ということを関連して教えてくれた。子どもたちには力がある。その力を信用するべきだし、そもそも子どもに対して私たちが何かを押し付けるようであってはいけないと諭してもくれた。いろんなことに通じる、ありがたくて大切な言葉だ。

同時にただ声を張り上げるだけが伝えることではないことを知った。もちろんアナウンスや話す技術があればいうことはないが、お茶のお稽古のそれのように、押したり、引いたり、だまったりといろんな方法がある。一瞬を大切にして泳がなくては。

インプットとアウトプット

インプットとアウトプットの比率を意識して変えてみようと思っていて、こっそりこのブログを書いてみている。机に向かいながらああ、書かなきゃと思い立ち、前日書いたものを読み返す→手を入れるを繰り返してしまう。なのでなかなか新規ブログが更新されないという。

手を入れると通りがよくなるのは当然だけれど、勢いで書いたものもまんざら悪くないなと思うものもあり。先日、目にした林真理子さんのインタビュー記事に、ほとんど推敲してません、という一文をのけぞりながら受け止めたけど、果たしてどっちがどうで、どう使い分けるのがいいんだろうな。