百道(ももち)から

考えの切れっぱし

作文教室の子どもたち

 小学生の作文教室を5年ぐらい続けてやっている。準備は苦しいが、楽しい。題材、切り口などどんな中身なら楽しく書いてくれるかな、どうしたら新しい自分を見つけてくれるかな、と考えながら取り組む。とつい詰め込みすぎることもあって、よく途中、ブレーキをかける。こういう点が学校の先生はすごいのだなあ、といつも思う。子どものスピードと大人のスピードは違う。プロの先生方はこのあたりをしっかりつかんでいるのだろう。

 速さの話しに戻ると、当然、大人が速いから優れているというのではない。子どもの速度は、自分の心のちょっとしたことをひょいと見つけられるゆるりとした速さ。道を一生懸命走っていても、キラッと光るものが目について、そこに足を止められる、そんな能力だと思う。

 この間の教室では子ども権利条約について話をした。その日は高学年中心だったけど言葉を聞いたことがある、というぐらいの反応。ちょっと難しかったかなと反省しながら用意してきたAとBの題材のうち、とりつき易いBの題材「なまえ」で書いてもらった。子どもの権利とはアイデンティーが守られること。アイデンティティーの最たるものが名前だと捉えた。自分の名前が好きな人、そうでもない人。いとこの名前に憧れている人、もし名前が毎日変わったらと想像してお話を広げた人。子どもたちの作文は楽しい。

 さて昨日は少し落ち込むことがあった。出した成果物が先方の望むものとまったく違っていたという事件。原因は打ち合わせの仕方が悪かったこと。私の姿勢の問題。もう十何年もおつきあいのある方だけれど、向こうから出された要望をフィーリングでわかる、わかると思ってはいけない。原点に立ち返ってひとつずつ丁寧に確認をする。シンプルな仕事のやり方ではないか。親しき仲にも礼儀ありなのだ。結果、ほかの方にも迷惑をかけてしまった。本当に申し訳ない。